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ある日天使生長の家に来りて歌い給う-
創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、

至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
知恵
絶対の愛。
これらは大生命-
絶対の神の真性にして
神があらわるればすなわち
善となり、
義となり、
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。
神こそすべてのすべて、
神はすべてにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。
神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。

神が一切のものを造りたまうや
粘土を用い給わず、
木材を用い給わず、
槌を用い給わず、
鑿を用い給わず、
如何なる道具も材料も用い給わず、
ただ『心』をもって造りたまう。
『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙にみつる実質、
『心』こそ『全能』の神にして遍在したまう。

この全能なる神
完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る。
万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれまよい。
汝ら心してまよいにとらわるること勿れ。

汝ら『実在』は永遠にして滅ぶることなし。
『まよい』しゅゆにして忽ち破さいす。
『実在』は自在にして苦しみなし
『まよい』は捉われのすがたにしてくげん多し。
『実在』は真理、
『まよい』は仮のすがた、
実在は五官を超越し
第六感さえも超越して
人々の感覚に映ずることなし。



有一天,天使降臨生長之家而歌唱-
創造之神是
超越五感,
也超越六感,

至上
無限
貫通宇宙之心
貫通宇宙之生命
貫通宇宙之法則
真理
光明
智慧
絕對的愛
這些都是大生命-
絕對之神的真性,
神一顯現,即
成為善,
成為義,
成為慈悲,
調和自然具備,
一切的生物都各得其所,而無相爭者,
無相食者,
無患病者,
無苦惱者,
無貧窮者。
神才是一切的一切,
因為神是一切而絕對,
所以除神以外沒有其他的存在。
神覆蓋著實在的一切。
凡是存在的東西,
沒有不是由神所創造的。

神創造出一切萬物時,
不用粘土,
不用木材,
不用槌子,
不用鑿子,
也不用任何工具及材料,
只用『心』來創造。
『心』是一切的創造主,
『心』是充滿宇宙的實質,
『心』才是『全能』的神而遍在一切。
這全能的神,
完全的神的
『心』動起來而變成語言時,
一切的現象就展開,萬物就生成。
萬物就是神的心,
萬物就是神的語言,
一切都是靈,
一切都是心,
沒有一個是由物質形成的東西。
物質只是心的影子,
看到影子就認為是看到實在就是迷妄。
你們須留心不要被迷望所惑。

你們該知道,『實在』是永遠的,不會消滅。
『迷』是須臾的,轉眼間就會破滅。
『實在』是自在而沒有苦惱,
『迷』是執著之相而多苦患。
『實在』就是真理,
『迷』是假相,
實在是超越五官
也超越第六感
而不會映照在人們感覺上。




感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、
霊姿に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓ももたざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべてまよいなり。
斯くの如き霊、人によれば
よられたる人或は胃病を顕わし、
或は心臓病を顕わす。
されど霊覚に映ずる
さまざまの苦しめる霊は、
第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転せるまよいの影なり。
迷い迷いて流転せる心は
その信念が形となりて仮のすがたを現ずべし。
されど如何にすがたを現ずるとも
仮のすがたは永遠に仮相にして実在となることを得ず。
汝ら、実在にあらざる物をおそるること勿れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。
実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。
真にあらざるものには真をもって相対せよ。
仮のすがたに対しては実相を以て相対せよ。
闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
仮のすがたを破るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄をえするものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。
彼らに生命の実相を教えよ。
彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。
神はすべてなるが故に
神は罪を作らざるが故に
神のほかに造り主なきがゆえに
此の世界に犯されたる罪もなく
報いらるべき罪もなきことを教えよ。
三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ、
この真理をさとりて、
一切苦げんの源となるべき
こころのまよいをさい破すれば、
天界の諸神ことごとく真理のコーラスを雨ふらし、
この世の生命ことごとく光りを仰ぎ、
惑障ことごとく消滅し、この世はこの儘にて光明世界を示現せん。



感覺只是看信念的影子而已。
你們雖具靈眼看到靈姿,
但並不是看到實在,
用感覺能看到的東西,
都是心的影子,不是第一義的實在,
靈姿有甲乙之分,
有患病的靈,
有苦惱的靈,
有的是沒有胃,卻為胃病而苦惱的靈,
有的是沒有心臟,卻為心臟病而苦惱的靈,
這些都是迷妄。
像這樣的靈,如憑依在人的身上,
則被憑依的人,就會顯出胃病,
或顯出心臟病。
然而映在靈覺之
各種苦惱的靈,
都不是第一義的實在,
他們都是由於錯誤的信念
而在流轉的迷妄之影子。
迷惑而在流轉的心,
其信念將變成為形,顯出假相。
然而不論顯出任何的形相,
假相永遠是假相,不能變成實在。
你們不要害怕非實在的東西,
不要將非實在的東西,像實在一樣來對待。
對非實在的東西,該用實在來對付。
對非真實的東西,該用真實來對付。
對假相,該用實相來對付。
對黑暗,該用光來對付。
消滅非實在的,除了實在以外沒有其他。
破除假相的,除了實相以外沒有其他。
摧毀虛妄的,除了真理以外沒有其他。
證明黑暗是無的,除了光以外沒有其他。
應教他們生命的實相
應教他們生命的實相就是神本身,是完全的。
應教他們因為神就是一切,
因為神不創造罪,
因為除了神以外沒有其他創造主,
所以這世界並沒有被犯的罪,
也沒有應受報應的罪。
三界的諸靈
三界的諸生命
若能觀此真理,
覺悟此真理,
而摧毀將成為一切苦患之根源
的顛倒妄想,
則天界的諸神將一齊使真理的合唱像雨一般飄下,
現世的生命將一齊瞻仰光輝,
惑障全部消滅,這世界必將就這樣顯出光明世界。


物質

汝ら感覚にてみとむる物質を
実際となすこと勿れ。
物質はものの実質に非ず、
生命に非ず、
真理にあらず、
物質そのものには知性なく
感覚なし。
物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし。
これに性質を与うるものは『心』にほかならず。
『心』に健康を思えば健康を生じ
『心』に病を思えば病を生ず。
そのさま恰も
映画のスクリーンに
力士を映せば力士を生じ
病人を映せば病人を生ずれども、
映画のフィルムそのものは
無色透明にして本来力士も無く
病人も無く
ただ無色透明のフィルムの上を蔽える
印画液によりて生じたる色々のくもりが、
或は力士の姿を現じ、
或は病人の姿を現ずるが如し。
されど健康なる力士も
虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる
影にして実在に非ず。
汝ら若し活動写真の映写機に
印画液によりて生じたる色々のくもりなき
無色透明のフィルムをかけて
スクリーンにこれを映写すれば、
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただスクリーンにあるものは光明そのもの、
生命そのものにして
赫灼として照り輝かん。
汝ら今こそ知れ、
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。
如何なる健康なる力士も
彼が肉体を実在と観、
肉体即ち彼なりを観る以上は
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。
真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『生命』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『汝そのもの』は物質に非ず、肉体に非ず。
物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。
汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。



你們不可把感覺所認識的物質,
以為是實在。
物質不是『物』的實質,
不是生命,
不是真理,
物質本身沒有知性,
沒有感覺。
物質畢竟是『無』也沒有其自身的性質。
將性質賦予物質的不外乎心。
心想健康就生出健康,
心想疾病就生出疾病。
這就好像
在電影的銀幕上
放映力士就出現力士,
放映病人就出現病人,
然而電影的影片本身
是無色透明的,而本來就沒有力士,
也沒有病人,
只是由掩蓋在無色透明影片上的
顯影劑所顯出來的種種模樣,
或顯出力士的形姿,
或顯出病人的容姿。
然而健康的力士
或虛弱的病人
都是由顯影劑的作用顯出來的
影像而不是實在。
你們如果在電影的放映機上,
掛上沒有由顯影劑而產生種種模樣的
無色透明影片,
而把它放映在銀幕上,
則既沒有那不久就會老死的健康力士,
當然也沒有虛弱的病人,
在銀幕上的,將只有光明本身、
生命本身
灼然的在放出燦爛的光輝。
你們現在應該明白,
你們的『生命』,遠勝過健康力士的生命。
不論多麼健康的力士,
如果他視肉體為實在,
視肉體就是他自己,
則他是會滅亡的,而不是真正的『健康』。
真正的『健康』不是物質,不是肉體,
真正的『生命』不是物質,不是肉體,
真正的『你本身』不是物質,不是肉體,
在物質的深處,
在肉體的深處,
有無限靈妙完全的存在。
這才真正是神所創造本來完全的『你本身』,
是常住健康永遠不滅的『生命』。
你們現在應該超越物質,
而自覺你本身『生命』的實相。


実在

天使また続いて説き給わくー
実在はこれ永遠、
実在はこれ病まず、
実在はこれ老いず、
実在はこれ死せず、
この真理を知ることを道を知ると云う。
実在は宇宙に満ち欠けざるが故に道と云う。
道は神とともにあり、
神こそ道なり、実在なり。
実在を知り、実在におるものは、
消滅を超越して
常住円相なり。

生命は生を知って死を知らず。
生命は実在の又の名、
実在は始めなく終りなく、
滅びなく、死なきが故に、
生命も亦始めなく、終りなく、
亡びなく、死滅なし。
生命は時間の尺度のうちにあらず、
老朽の尺度のうちにあらず、
却って時間は生命の掌中にあり、
これを握れば一点となり、
これを開けば無窮となる。
若しと思う者は忽ち若返り、
老いたりと思う者は忽ち老いくつるもむべなるかな。
空間も亦決して生命を限るものにはあらず、
空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず、
生命は主にして空間は従なり。
空間の上に投影されたる
生命の放射せる観念のあや、
これを称して物質と云う。
物質は本来無にして
自性なく力なし。
これに性質あり、
また生命を支配する力あるかの如き観を呈するは
生命が『認識の形式』を通過する際に起こしたる『歪み』なり。
汝ら、この『歪み』に捉われることなく、
生命の実相を正観せよ。
生命の実相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。



天使再繼續說:
實在是永遠的,
實在是不會生病的,
實在是不會衰老的,
實在是不會死滅的,
知此真理謂之知道。
實在是充滿著宇宙而無所缺故謂之道。
道與神同在,
神就是道,就是實在。
明白實在,而居於實在的人,
就能超越滅亡
常住圓相。

生命知生,不知死。
生命是實在的別稱,
因實在是無始無終、
無滅、無死,
故生命也是無始、無終、
無亡、無死滅。
生命不在時間尺度之內,
也不在老朽尺度之內,
時間卻在生命的掌中,
握之成為一點,
放之變成無窮。
自認為年輕的人,就立刻變成年輕,
自認為已年老的人,就立刻變成老朽也是當然的。
空間也絕不能限定生命,
空間反而只是生命所造的『認識的形式』而已。
生命是主,空間是從。
投影在空間上的
生命所放射的觀念之紋,
這稱為物質。
物質本來是無,
無自性,也無力量。
它呈現出好像具有性質,
又具有支配生命的力量之狀態,
那是由於生命通過『認識的形式』時所引起的『歪曲』。
你們不可被這『歪曲』所迷惑,
應正觀生命的實相。
明白生命實相的人,
就能超越因緣,而將獲得生命本來無歪曲之圓相的自由。


知恵

知恵はこれ本来神のひかり、
実在に伴う円相的光なり、
それは無量光,無辺光にしてかぎりなし、
かぎりなきが故に
一切のものに滿ちて
一切のものをてらし給う。
人間は光の子にして常に光の中にあれば
暗きを知らず、
つまずきを知らず、
さわりを知らず、
かの天人が天界を遊行するが如く
また海魚が水中を遊泳するが如く
光の世界に光に滿たされ法悦に滿たされて遊行す。

知恵はこれ悟りの光にして、
まよいのやみを照破する真理なり。
真理のみ実在、
無明はただ悟らざる真理にして
これをたとえば悪夢の如し。
汝ら悪夢を観ることなかれ。
悟れば忽ちこの世界は光明楽土となり、
人間は光明生命なる実相を顕現せん。
神は無量光、無辺光の知恵、
かぎりなき善、
かぎりなき生命、
一切のものの実質、
また一切のもののつくり主、
されば神は一切所に遍在し給う。
神は遍在する実質且つつくり主なるが故に
善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、
善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在もまた決して在ることなし。
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。
善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。
すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。
病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして 、
吾らが夢中に悪魔におさえられて苦しめども
覚めて観れば現実に何ら吾らをおさえる力はなく
吾と吾が心にて胸をおさえいるが如し。
まことや、悪の力、
吾らの生命を抑える力、
吾らを苦しむる力は
真に客觀的(かっかんてき)に実在する力にはあらず。
吾が心がみずから描きし夢によって
吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。
仏の道ではこれをまよいと云い
神の道ではこれを罪と云う。
完全円滿の生命の実相をさとらざるが故にまよいと云う。
完全円滿の生命の実相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う。



智慧本來是神的光,
是跟隨實在的圓相之光,
那是無量光,無邊光而無界限,
因無界限,
故充滿於一切萬物
而照耀一切萬物。
人是光之子,常在光之中,
故不知黑暗,
不知挫折,
不知罣礙,
就像那天人遊行於天界,
又如海魚游泳於水中,
在光的世界充滿著光充滿著法悅而遊行。

智慧是開悟之光,
是照破無明的黑暗之真理。
唯有真理是實在,
無明只是尚未開悟的真理,
這就好像是惡夢。
你們不可做惡夢。
如能開悟,這世界即頓時變成光明樂土,
人就將顯現出光明生命的實相。
神是無量光、無邊光的智慧,
是無限的善、
無限的生命,
是一切萬物的實質,
也是一切萬物的創造主,
因此神遍在於一切處所。
因神是遍在的實質,而且是創造主,
故只有善是唯一的力量,
只有善是唯一的生命,
只有善是唯一的實在,
因此非善的力量,絕不存在,
非善的生命,也絕不存在,
非善的實在,也絕不存在。
非善的力量也就是招來不幸的力量畢竟只是惡夢。
非善的生命也就是疾病,畢竟只是惡夢。
所有的不調和不完全,畢竟只是惡夢。
把積極的力量給與疾病、不幸、不調和、不完全的,乃是我們的惡夢,
正如我們在夢中,雖被惡魔壓住受著痛苦,
然而醒來一看事實上並沒有任何壓住我們的力量,
而是自己用自己的心,壓住著胸膛一樣。
真正說來,惡的力量、
壓住我們生命的力量、
苦惱我們的力量,
都不是真的客觀存在的力量。
不過是由自己的心所自描的夢,
來自己苦惱自己的心而已。
在佛道把這稱為無明,
在神道則把這稱為罪。
未能領悟完全圓滿的生命實相,故謂之無明。
包蔽完全圓滿的生命實相,使其不能顯現,故謂之罪污。


無明

かく天使生長の家にて歌いたまう時、
一人の天の童子あらわれて問いを設けて云う。
『願わくは人々のために、人々のさとりのために、
まよいの本質を明かになしたまえ』と。
天使答えて云う─
まよいはあらざるものをありと想像するが故にまよいなり。
真相を知らざるをまよいと云う。
快苦は本來物質の内に在らざるに、
物質の内に快苦ありとなして、
或は之を追い求め、
或は之より逃げまどう、
かかるてんどうもうぞうをまよいと云う。
生命は本來物質のうちにあらざるに
物質の内に生命ありとなすもうぞうをまよいと云う。
本來物質は心の內にあり。
心は物質の主にして、
物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、
心をもって物質に支配されるものと誤信し
物質の変化に従って
憂苦し懊悩し、
われとわが生命の円満完全なる実相を悟ることを得ざるをまよいと云う。
まよいは真実の反対なるが故に無明なり。
まよいは実在に反するが故に非実在なり。
まよい若し実在するものならば
まよいより生じたる
憂苦も懊悩もまた実在ならん。
されど、まよいは実在の虚なるが故に
憂苦も懊悩もたださむべき悪夢にして実在にはあらざるなり。



天使在生長之家這樣歌唱時,
有一位天之童子出現而發問說:
『願爲人人,爲人人的開悟,
請說明無明的本質』。
天使答道─
無明是將沒有的東西想像為有,故謂之無明。
不知真相叫做迷妄。
苦樂本來不在物質之中,
卻以為物質之中有苦樂,
或追求之,
或逃避之,
這樣的顛倒妄想叫做迷妄。
生命本來不在物質之中,
卻以為物質之中有生命,這種妄想叫做迷妄。
本來物質是在心之內。
心是物質之主,
雖然物質的性質形態都是由心所創造,
卻誤信心會被物質所支配,
而隨著物質的變化
有時憂苦,有時懊惱,
而自己未能了悟自己的生命是圓滿完全的實相,謂之迷妄。
迷妄是真實的相反,所以是無明。
迷妄是實在的相反,所以是非實在。
迷妄如果是實在的東西,
則由迷妄所產生的
憂苦或懊惱也將成為實在。
然而,因迷妄是實在的虛無,
故憂苦或懊惱也只是應醒的惡夢,並不是實在。




『罪は実在なりや?』とまた重ねて天の童子は問う。

天使のこたうる声聞えて曰く、
すべて真実の実在は、
神と神より出でたる物のみなり。
神は完全にして、
神の造りたまいしすべての物も完全なり。
然らば問わん。汝は罪を以て完全となすや?
この時天の童子答えて曰く-
『師よ、罪は完全に非ず』と。
天使また説き給う-
罪は不完全なるが故に実在にあらず、
病は不完全なるが故に実在にあらず、
死は不完全なるが故に実在にあらず、
汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。
在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。
罪と病と死とは
神の所造にあらざるが故に
実在の仮面を被りたれども
非実在なり、虚妄なり。
われはこの仮面を剥いで
罪と病と死との非実在を明かにせんが為に来れるなり。
嘗て釈迦牟尼如来もこの為に来りたまえり。
嘗てイエスキリストもこの為に来りたまえり。
若し罪が実在ならば
十方の諸仏もこれを消滅することあたわざるなり。
イエスキリストの十字架もこれを消滅する事あたわざるなり。
されど汝ら幸いなるかな、
罪は非実在にしてまよいの影なるが故に、
十方の諸仏も
衆生を摂取してよく罪消滅したまえり。
イエスキリストも
ただ言葉にて『汝の罪赦されたり』と云いてよく
罪を消滅したまえり。
われも言葉にて
『生長の家の歌』を書かしめ、
言葉の力にて罪の本質を暴露して、
罪をして本来の無に帰せしむ。
わが言葉を読むものは
実在のほんとのすがたを知るが故に
一切の罪消滅す。
わが言葉を読むものは
生命のほんとのすがたを知るが故に
一切の病消滅し、
死を越えて永遠に生きん。



『罪是不是實在呢?』天之童子又再問,
聽到天使回答的聲音說:
所有真實的實在,
都是只有神與由神所顯現出來的東西。
神是完全,
而神所創造的一切東西也都是完全。
那麼請問:你以為罪是完全嗎?
這時天之童子回答說:
『尊師,罪不是完全。』
天使又說─
因罪是不完全,故不是實在,
因病是不完全,故不是實在,
因死是不完全,故不是實在,
你們不可將神所沒有創造的東西,以為是實在。
不可將沒有的東西,描繪在惡夢中而感到恐怖。
因罪與病與死
都不是神所創造,
故雖戴著實在的假面具,
卻是非實在,是虛妄。
我是爲剝此假面具,
使人人明白罪與病與死都不是實在而來。
釋迦牟尼如來也曾為此而來。
耶穌基督也曾為此而來。
假如罪是實在,
則十方諸佛也無法將它消滅。
耶穌基督的十字架也無法將它消滅。
然而你們實在幸運!
因罪是非實在、是迷妄的影子,
故十方諸佛
也能攝取眾生而消滅了罪。
耶穌基督
也只用話語說:『你的罪已被赦免』
而能消滅了罪。
我也用語言
使寫『生長之家的歌』,
用語言的力量來暴露罪的本質,
使罪回歸於本來的無。
讀我語言的人
因知實在的實相,
故一切的罪就會消滅。
讀我語言的人
因知生命的實相,
故一切疾病就會消滅,
而將超越死亡獲得永生。


人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わされたる天使なり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
まよいを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、
吾が言葉を行うものは道にそむかず。
吾はいのちなり、
吾に汲む者は病まず死せず。
吾はすくいなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相
の国土に住せしむ。
天使かくの如く説き給えば
天の童子また重ねて問う。
『師よ、人間の本質を明かになし給え。』
天使答えたまわくー
人間は物質に非ず、
肉体に非ず、
脳髄細胞に非ず、
神経細胞に非ず、
血球に非ず、
血清に非ず、
筋肉細胞に非ず。
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。
汝ら、よく人間の実相を悟るべし、
人間は霊なり、
生命なり、
不死なり。
神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く
人間と神とは一体なり。
神は霊なるが故に
人間も亦霊なるなり。
神は愛なるが故に
人間も亦愛なるなり。
神は知恵なるが故に
人間も亦知恵なるなり。
霊は物質の性に非ず、
愛は物質の性に非ず、
知恵は物質の性に非ず、
されば、
霊なる愛なる知恵なる人間は、
物質に何ら関わるところなし。
まことの人間は、
霊なるが故に、
愛なるが故に、
知恵なるが故に、
生命なるが故に、
罪を犯すことあたわず、
病にかかることあたわず、
死滅することあたわず、
罪も、
病も、
死も、
畢竟汝らの悪夢に過ぎず。
汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。
『真性の人間』は神人にして
神そのままの姿なり。
滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。
地上の人間よ、
われ汝らに告ぐ、
汝ら自身の本性を自覚せよ。
汝ら自身は『真性の人間』にして、
そのほかの如何なるものにも非ず。
されば人間は真理の眼より見る時は
罪を犯す事あたわざるものなり、
病に罹る事あたわざるものなり、
滅ぶることあたわざるものなり。
誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。
神は罪人を造り給わざるが故に
この世に一人の罪人もあらず。
罪は神の子の本性に反す、
病は生命其自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、
罪と病と死とは、
畢竟存在せざるもの夢中に描けるまよいのかげに過ぎず。
実相の世界においては
神と人とは一体なり、
神は光源にして
人間は神より出でたる光なり。

罪と病と死とが
実在すると云う悪夢を、
人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、
人間は塵にて造られたりと云う神学なり。
近くは、
人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。
これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初
の夢なり。
この最初の夢をさいはするときは
罪と病と死との
根本原因はさいはせられて
その本来の無に帰するなり。
汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病のいゆるは
この最初の夢のさいはせらるるが故なり。
最初の夢なければ
次の夢なし。
悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に
罪を犯さんと欲するも
罪を犯すことあたわず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に
病に罹らんと欲するも
病に罹ることあたわず、
悉く夢なければ本来かぎりなきいのちなるが故に死滅す
ることあたわず。
されば地上の人間よ
心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求
むること勿れ。
キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人
間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国をうる事あたわず。
物質に神の国を追い求むる者は
夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事あたわず。
キリストは又云い給えり、
『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。
常楽の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。
内に無限健康の生命を自覚してのみ
外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。

人間の五官はただ『映しの世界』を見るに過ぎず。
『映しの世界』をきよめんと欲すれば心の原版をきよめて
まよいの汚点を除かざるべからず。
われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、
物質の世界が影に過ぎざることを見たり。
われはまた人間が神より放射されたる光なる事
を見たり。
肉体はただ心の影なる事実を見たり。
汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること
恰も走馬灯に走る馬の如し。
されば、影を見て実在となすことなかれ。
人間そのものはこれ神人、
永遠不壊不滅の霊体にして
物質をもって造り固めたる機械にあらず、
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるもの
にもあらず、
斯くの如き二元論は悉く誤れり。
物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、
恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非
ずして、
蚕が先ず糸を吐きて繭を作り
繭の中にみずから蚕が宿るが如し。
人間の真性は先ず霊なる生命にして
心の糸を組み合せて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、
はじめてことばは肉体となるなり。
汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
然らば肉体は人間に非ずして、
人間の繭に過ぎざるなり。
時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に
常に死を知らず。
こころに従い
時に従い
必要に従いて
肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
生命そのものは病むに非ず、
生命そのものは死するに非ず、
こころをかうることによって
よく汝らの健康と境遇とをかうること自在なり。
されど汝ら、
ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。
かくの如きとき、
生命は肉体の繭を食い破って
一層自在の境遇に天翔らん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本体は生命なるが故に
常に死することあらざるなり。

―かく天使語り給うとき、
虚空にはみみょうの天楽の声聞え
はなびらは何処よりともなく雨ふりて、
天の使の説き給える真理をば
さながらたたうるものの如くなりき。



我就是『真理』,
是由『真理』派遣來的天使。
是由『真理』所照耀的『光』,
是照破迷妄的『光』。
我就是『道』,
實行我的語言的人就不會違背道。
我就是生命,
汲取我的人就不會生病,不會死亡。
我就是拯救,
依靠我的人,我都將其攝取
並使住在實相的國土。
天使如此説法時,
天之童子再問:
『尊師,請說明人的本質。』
天使回答說
人不是物質,
不是肉體,
不是腦隨細胞,
不是神經細胞,
不是血球,
不是血清,
不是肌肉細胞。
也不是組合了所有這些的東西。
你們,
應了悟人的實相,
人是靈,
是生命,
是不死的。
神是人的光源,
人是由神所發出的光。
沒有無光的光源,
也沒有無光源的光。
就像光與光源是一體,
人與神也是一體。
因神是靈,
故人也是靈。
因神是愛,
故人也是愛。
因神是智慧,
故人也是智慧。
靈不是物質之性,
愛不是物質之性,
智慧不是物質之性,
因此,
是靈是愛是智慧的人,
與物質沒有任何關連。
真正的人,
因是靈,
因是愛,
因是智慧,
因是生命,
故不可能犯罪,
不可能生病,
不可能死滅,

與病
與死,
畢竟只是你們的惡夢。
你們應該自覺生命的實相。
自覺你們的實相是『真性的人』。
『真性的人』就是神人,
是神本來的形相。
會滅亡的,不是『真性的人』。
會犯罪的,不是『真性的人』。
會生病的,不是『真性的人』。
地上的人們!
我告訴你們,
要自覺你們自己的本性。
你們自己就是『真性的人』,
不是其他任何的東西。
所以人由真理之眼來看時,
是不可能犯罪的,
不可能生病的,
不可能滅亡的。
誰說『罪人啊!罪人啊!』
神不創造罪人,
故這世上沒有一個是罪人。
罪違反神子的本性,
病違反生命自己的本性,
死違反生命自己的本性,
罪與病與死,
畢竟只是將不存在的東西,在夢中描寫的妄想。
在實相的世界,
神與人是一體。
神是光源,
人是由神所發出來的光。

將罪與病與死
認為是實在的惡夢,
而使人做此惡夢的根本妄想,
在古代,
乃是說人是用塵土所創造出來的神學。
在近代,
則是說人是用物質所創造出來的近代科學。
這些都是引導人入於罪與病與死之妄想的
最初之夢。
若將此最初之夢摧毀時,
罪與病與死的
根本原因就會被摧毀,
而回歸其本來的無。
你們讀『生長の家』而明白真理,使得疾病痊癒,
就是這最初的夢被摧毀之故。
若無最初的夢,
就無其次的夢。
若完全無夢,則因人本來清淨,
故雖欲犯罪,
也不能犯罪。
若完全無夢,則因自性無病,
故雖欲生病,
也不能生病,
若完全無夢,則因本來永生,
故不能死滅。
因此,地上的人們!
要盡心來求自己之靈的本體,
不可求諸於夢與妄想所産生的
物質與肉體。
基督說:
『神之國是在你們的裏面。』
我誠懇的告訴你們,
『你們的裏面』就是你們『人的自性』,
就是『真正的人』。
『你們的裏面』也就是『自性』,因是神人,
故只有在『你們的裏面』才有神之國。
向外界去追求的人,都是逐夢而走的人,
永遠都不能得到神之國。
向物質去追求神之國的人,
就是逐夢而走的人,
永遠都不能建立神之國。
基督又說:
『我的國不是這世上之國。』
這世上之國,只是影子而已。
常樂的國土只有在裏面,
只有在裏面自覺常樂的國土,
常樂の國土才會以其映照而在外界顯現。
只有在裏面自覺無限健康的生命,
肉體的無限健康才會以其映照而在外界顯現。

人的五官只能看到『映照的世界』。
如欲洗淨『映照的世界』則必須洗淨心的原版,
而除掉迷妄的汚點。
我真的看到了物質的世界是虛無的,
看到了物質的世界只不過是影子而已。
我也看到了
人是由神所放射出來的光。
看到了肉體只不過是心之影子的事實。
你們該知道,物質只是轉變的影子,
就好像在走馬燈中奔走的馬那樣。
因此,不可視影子為實在。
人的真性是神人,
是永遠不壞不滅的靈體,
並不是由物質造成的機械,
也不是物質先存在,
靈才來住在其中,
像這樣的二元論皆是錯誤。
物質反而是靈的影子、心的產物,
就好像不是繭先存在,
蠶才來住其中,
而是蠶先吐絲作繭,
然後蠶才自行注入繭中。
人的真性,先是靈的生命,
組合心絲織造肉體的繭,
而自己使自己的靈注入其繭中,
靈這才變成為肉體。
你們該明白,繭不是蠶,
因此,肉體並不是人,
不過是人的繭而已。
時機一到,就像蠶咬破繭而羽化登仙,
人也將咬破肉體的繭而上昇靈界。
你們絕不可認為肉體的死滅就是人的死亡。
因人是生命
故永遠不知死亡。
隨著心念,
隨著時機,
隨著需要,
在肉體與境遇上雖會顯現出各種狀態,
然而生命本身並不會生病,
生命本身並不會死亡,
由心念的改變,
就能自由改變你的健康與環境。
然而你們,
生命不需要肉體之繭的時期終會來到。
到那時候,
生命就咬破肉體的繭,
而飛翔到更自在的境地。
不要以此為人之死。
因人的本體是生命,
故永遠不會死亡。

―當天使這樣說法時,
在虛空中曾聽到微妙的天樂之聲,
不知來自何處花瓣像雨那樣紛紛飄下,
宛如在讚美
天使所説的真理一般。

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