大丈夫ほら 七色の橋da i jou bu ho ra na na i ro no ha shi你看 沒事的 那座七色的橋
- Nov 04 Wed 2009 19:09
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虹
大丈夫ほら 七色の橋da i jou bu ho ra na na i ro no ha shi你看 沒事的 那座七色的橋
- Oct 07 Wed 2009 20:33
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防範新流感 請你跟我這樣做
╭〃〃 防範新流感
請你跟我這樣做 〃〃╮
★對抗流感莫驚慌
☆出外手帕隨身帶
★肥皂洗手殺菌好
☆微笑拱手不握手
★進出醫院多洗手
☆雙手不碰眼鼻口
★咳嗽噴嚏要遮口
☆生病在家多休息
★迅速就醫戴口罩
☆感冒發燒不亂走
★新型流感遠離我
- Oct 06 Tue 2009 20:04
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昨天看完淚光閃閃跟海角七號了
会話を作ってくれた後輩たち、ありがとう。
これは後輩のクラスの授業です。
どうして英語に授業を選んだのを母に話しました.英語をもっとたくさんわかりたいからだ。
- Oct 06 Tue 2009 18:17
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求人不如求自己
秋雨,淅淅瀝瀝。
某君正在屋檐下避雨,突然見觀音撐著傘走過來。
他非常高興,急忙說:
「普度眾生的觀音菩薩,您能否普渡一次,帶我回家?」
「你在屋檐下,我在雨中,簷下無雨,何需我度?」觀音回答道。
某君一聽,立即跑到雨裡說:「現在,我已經在雨中了,這下可以度我了吧。」
「你在雨中,我也在雨中。你被雨淋,是因為你沒有帶傘;我沒被雨林;是因為我有傘。 可見,是傘度我,你沒有傘,應該去找傘,而不是找我。」 說完,觀音就消失了。
過了一段時間,某君遇到了困難,便到寺廟中去求觀音。
他走進寺廟,見一個正在求觀音的人,竟然跟觀音長得一模一樣,便問:「您是觀音菩薩嗎?」
「我正是觀音。」那人回答說。
某君更感到驚奇了:「既然您是觀音,那為什麼還要拜自己呢?」
觀音微微一笑:「跟你一樣,我也遇到了難事,
但我知道,求人不如求自己。」
- Sep 29 Tue 2009 20:12
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礼拝
- Sep 11 Fri 2009 13:49
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歌舞伎の成立と発展
1
1603(慶長8)年、出雲の阿国は、出雲大社の巫女をしていました。阿国は、舞踊にすぐれた才能をもっていたので、出雲大社修理のための勧進に、諸国を巡業して回っていました。
京都北野神社の境内や五条河原で、阿国は、男装を考案し、刀をさして舞い、「演じ」たので、その斬新さに、見物人は拍手喝さいをおくりました。これがかぶき踊りの初めと言われています。
1624(寛永元)年、猿若勘三郎は、猿若座を創設しました(のちの中村座です)。
1629(寛永6)年、幕府は、春を売る「(遊女)女歌舞伎」(今風のオニャンコ系)を禁止しました。
1652(承応元)年、幕府は、春を売る「若衆歌舞伎」(今風のジャニーズ系)を禁止しました。
1653(承応2)年、幕府は、若衆の象徴である前髪を落として野郎頭になることや、売色的要素を廃して、物真似狂言尽に徹することを条件に、歌舞伎の再開を許可しました。これが、野郎歌舞伎です。
2
1661(寛文元)年、「続き狂言」が考案され、ストーリーのある歌舞伎に発展しました。また、引幕が考案され、時間的な転換や筋の複雑な多幕劇が、演出できるようになりました。
1667(寛文7)年、初世市村羽左衛門は、市村座を創設しました。
1673(延宝元)年、初世市川団十郎は、江戸で、坂田金時役で、大勢を相手に、豪快な大立ち回りを演じ、大評判になりました。これが、荒事芸の初めです。
1698(元禄11)年、上方の芳沢あやめは、『傾城浅間嶽』の「傾城三浦」で、女形(おやま)を演じて、大好評をえました。これが、女形芸の初めです。
1699(天国12)年、上方の坂田藤十郎は、近松門左衛門のシナリオになる『傾城仏の原』の「梅永文蔵」で、濡れ事を演じて、大喝采を得ました。これが、和事の初めです。
3
1701(元禄14)年、赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下で、吉良上野介義央に刃傷に及びました。浅野長矩は、切腹させられ、浅野家は、断絶させられました。
1702(元禄15)年、大石内蔵助ら赤穂浪士は、吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。
1703(元禄16)年2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
1705(宝永2)年、近松門左衛門は、人形浄瑠璃の竹本座で、シナリオを手がけるようになりました。
1718(享保3)年、2世市川団十郎は、早口言葉を主とする長ぜりふを考案しました。
1734(享保19)年、この頃、花道が考案され、観客に密着した新しい演出が出来るようになりました。
1736(元文元)年、初世宮古路豊後掾は、心中・道行など叶わぬ恋の心情を切々と謡いあげる曲節を歌舞伎に使い、江戸で大好評を博しました。その系統から常磐津節、富本節、清元節が生まれました。
1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。
1758(宝暦8)年、大坂の歌舞伎作者である並木正三は、初めて回り舞台を考案し、テンポの速い演出が出来るようになりました。
1766(明和3)年、初世中村仲蔵は、『仮名手本忠臣蔵』で、新しい斧定九郎役を考案しました。
4
1804(文化元)年、4世鶴屋南北は、『天竺徳兵衛韓噺』で、俗受けする水中早変りなどの演出を考案し、大評判となりました。これを外連(けれん)といいます。また、4世鶴屋南北は、残酷で非道な殺しの場や責め場、官能的な濡れ場などのシナリオを残しました。これを「生世話物」といいます。
1842(天保13)年、7世市川団十郎は、奢侈禁止令により、江戸十里四方追放となりました。
また、江戸三座も、浅草へ移転させられました。
1878(明治11)年、9世市川団十郎は、荒唐無稽な筋書でなく、時代考証に基づいた扮装や演出を考案しました。これを「活歴物」といいます。
1881(明治14)年、河竹黙阿弥は、明治の開化風俗を取り入れた『島ちどり月白浪』というシナリオを書きました。これを「散切物」といいます。
1889(明治22)年、歌舞伎座が、東京東銀座に開設されました。9世市川団十郎・5世尾上菊五郎・初世市川左団次らが、出演し、「団・菊・左時代」と言われました。
5
1929(昭和3)年、2世市川左団次は、『仮名手本忠臣蔵』などを、ロシアで公演しました。これが、海外公演の初めです。
1931(昭和6)年、歌舞伎界の門閥制度に反発した2世河原崎長十郎・3世中村翫右衛門らは、松竹歌舞伎を脱退して、前進座を結成しました。
1951(昭和26)年、11世市川団十郎は、宮廷を扱う『源氏物語』に初挑戦しました。
- Sep 08 Tue 2009 17:57
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日記文学の流れと文学史上の意味
