影片只到大雄
的字幕出現為止
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1603(慶長8)年、出雲の阿国は、出雲大社の巫女をしていました。阿国は、舞踊にすぐれた才能をもっていたので、出雲大社修理のための勧進に、諸国を巡業して回っていました。
京都北野神社の境内や五条河原で、阿国は、男装を考案し、刀をさして舞い、「演じ」たので、その斬新さに、見物人は拍手喝さいをおくりました。これがかぶき踊りの初めと言われています。
1624(寛永元)年、猿若勘三郎は、猿若座を創設しました(のちの中村座です)。
1629(寛永6)年、幕府は、春を売る「(遊女)女歌舞伎」(今風のオニャンコ系)を禁止しました。
1652(承応元)年、幕府は、春を売る「若衆歌舞伎」(今風のジャニーズ系)を禁止しました。
1653(承応2)年、幕府は、若衆の象徴である前髪を落として野郎頭になることや、売色的要素を廃して、物真似狂言尽に徹することを条件に、歌舞伎の再開を許可しました。これが、野郎歌舞伎です。
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1661(寛文元)年、「続き狂言」が考案され、ストーリーのある歌舞伎に発展しました。また、引幕が考案され、時間的な転換や筋の複雑な多幕劇が、演出できるようになりました。
1667(寛文7)年、初世市村羽左衛門は、市村座を創設しました。
1673(延宝元)年、初世市川団十郎は、江戸で、坂田金時役で、大勢を相手に、豪快な大立ち回りを演じ、大評判になりました。これが、荒事芸の初めです。
1698(元禄11)年、上方の芳沢あやめは、『傾城浅間嶽』の「傾城三浦」で、女形(おやま)を演じて、大好評をえました。これが、女形芸の初めです。
1699(天国12)年、上方の坂田藤十郎は、近松門左衛門のシナリオになる『傾城仏の原』の「梅永文蔵」で、濡れ事を演じて、大喝采を得ました。これが、和事の初めです。
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1701(元禄14)年、赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下で、吉良上野介義央に刃傷に及びました。浅野長矩は、切腹させられ、浅野家は、断絶させられました。
1702(元禄15)年、大石内蔵助ら赤穂浪士は、吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。
1703(元禄16)年2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は、お預け大名家で切腹しました。
2月16日、赤穂事件がモデルの『曙曽我夜討』が、江戸中村座で公演されました。
2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
1705(宝永2)年、近松門左衛門は、人形浄瑠璃の竹本座で、シナリオを手がけるようになりました。
1718(享保3)年、2世市川団十郎は、早口言葉を主とする長ぜりふを考案しました。
1734(享保19)年、この頃、花道が考案され、観客に密着した新しい演出が出来るようになりました。
1736(元文元)年、初世宮古路豊後掾は、心中・道行など叶わぬ恋の心情を切々と謡いあげる曲節を歌舞伎に使い、江戸で大好評を博しました。その系統から常磐津節、富本節、清元節が生まれました。
1748(寛延元)年、2世竹田出雲らは、大坂竹本座で、人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』を初演しました。
1758(宝暦8)年、大坂の歌舞伎作者である並木正三は、初めて回り舞台を考案し、テンポの速い演出が出来るようになりました。
1766(明和3)年、初世中村仲蔵は、『仮名手本忠臣蔵』で、新しい斧定九郎役を考案しました。
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1804(文化元)年、4世鶴屋南北は、『天竺徳兵衛韓噺』で、俗受けする水中早変りなどの演出を考案し、大評判となりました。これを外連(けれん)といいます。また、4世鶴屋南北は、残酷で非道な殺しの場や責め場、官能的な濡れ場などのシナリオを残しました。これを「生世話物」といいます。
1842(天保13)年、7世市川団十郎は、奢侈禁止令により、江戸十里四方追放となりました。
また、江戸三座も、浅草へ移転させられました。
1878(明治11)年、9世市川団十郎は、荒唐無稽な筋書でなく、時代考証に基づいた扮装や演出を考案しました。これを「活歴物」といいます。
1881(明治14)年、河竹黙阿弥は、明治の開化風俗を取り入れた『島ちどり月白浪』というシナリオを書きました。これを「散切物」といいます。
1889(明治22)年、歌舞伎座が、東京東銀座に開設されました。9世市川団十郎・5世尾上菊五郎・初世市川左団次らが、出演し、「団・菊・左時代」と言われました。
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1929(昭和3)年、2世市川左団次は、『仮名手本忠臣蔵』などを、ロシアで公演しました。これが、海外公演の初めです。
1931(昭和6)年、歌舞伎界の門閥制度に反発した2世河原崎長十郎・3世中村翫右衛門らは、松竹歌舞伎を脱退して、前進座を結成しました。
1951(昭和26)年、11世市川団十郎は、宮廷を扱う『源氏物語』に初挑戦しました。
弥生時代末期には、すでに巨大な墳丘を持つ古墳が出現している。これらの古墳は、山の頂上か中腹の天然地形を利用して造られたものが多く占めている。
大約在彌生時代後期就存在著有巨大墳丘的墓地,這些皇室墳地大多利用天然地形造墳,建於山頂、山腰位置。
日本の古墳は、基本的円墳・方墳に分けられるが、3世紀の後半には前方後円墳が西日本に出現し、この時期において規模の一番大きい形式である。
根據古墳堆土的形式,有圓墳,方墳,但在西元三世紀後半時,出現更大規模的「前方後圓」型的古墳在西日本的中心出現。
平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた美しい形状は、日本独特の特徴であり、高塚式古墳の中で代表的なものとして知られている。
其中以前方後圓墳的規模最為雄偉,形狀也十分優美,再加上它是國外沒有而日本獨具的形式,所以可以把它稱為日本高冢式古墳的代表。
文学の誕生は、音楽・舞踏・美術などと同じ、祭りや占いと関わっている。
文學的誕生跟音樂、舞蹈、美術的起源有著類似的背景,都與祭祀、占卜相關。
人たちがまだ採集生活を送っている時代では、自然の力があまりにも脅威的なため、祭りや占いによって、みんなの心を安らかにすることができる。
在人們還過著採集生活的時候,對於自然界的威脅相當畏懼,所以人們靠著祭祀或是占卜來解釋這些現象,尋求心靈上的慰藉。
そして定居時代に入ってから、人たちは豊作を祈るため、一部の自然、または超自然現象を神として崇拝し始めた。当時では、祭の場で使われる歌や言葉は霊力を持っていると思われ、「言霊信仰」と呼ばれる信仰が出現した。
進入定居時代後,為了迴避自然災害、祈求農作物豐收,人們開始將一些自然或是超自然現象當作是神明來崇拜、祭祀,他們認為,在祭祀場合所唱的歌跟話語跟平時對話不一樣,是具有靈力的,這就叫作「言靈信仰」。
これらの言葉は、音楽や踊りに加わることで、祭の場でなくても、人の心を動かすことができる。これを文学の原型といっても過言ではないでしょう。こういう言語表現の進歩に伴って、神話、伝説や歌謡が誕生した。
